政治(第44話):新元号に思う

   新元号が『令和』となった。私は発表される前から、そろそろ中国古典ではなく、日本の古典に基づいて決めて欲しいと考えていました。実際にそうなって嬉しく思っています。その理由について今日は述べます。
   人間の成長において最も大切なことは、「自立して生きることができる」ということだと考えます。勿論、一人では生きてゆけないので、お互いに助け合いながら、そして他人のよいところは吸収して成長し、自分独自の生き方・成長を示すことが望ましいです。このことは国のレベルでも同じだと、私は考えています。
   私たちは、確かに中国の文化からたくさんのことを学んできました。しかし、ただ学んだだけではなく発展もさせて日本独自の文化を創ってきた、と私は考えています。しかし、元号の拠り所を中国古典だけに求め続けることは、日本の長い歴史的文化を顧みたとき、元号のヒントとなる文化的遺産が日本文化に存在しないことを意味する、と私には感じます。
   日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方(修業における過程)の一つに『守・破・離』があります。これは、千利休の訓をまとめた『利休道歌』(「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」)を引用したものとされているようです(情報源:Wikipedia)。これに習うとするならば、247回の元号すべてを中国古典に依拠してきたのですから、そろそろ「破・離」の過程に移行すべきではないか、と私は考えるのです。つまり、元号決定過程の一歩自立・成長への歩みをするのです。この意味で今回、万葉集に元号を求めた「令和」は形式的にも文化的自立への出発点に立った気がして嬉しく感じています。実際にも、政治的色彩の強い中国古典から、自然をめでる万葉集に出典が移行しました。『破』の過程に入りつつあると感じています。
   ただ一つ残念なことと言えば、この前進が非常に偏った思想の持ち主である安倍晋三首相でなされたことです。しかし一方で、偏った思想の持ち主だったからこそ、このような変化をすることができたという側面も否めません。日本人の幸福度評価は世界で54番目で、先進国では最下位です。幸福度ランキングの上昇も安倍首相だからできたという日を期待したく思います。これは無理でしょうか?

   追記:2日の新聞によれば、中国紙、環球時報が「新元号は脱中国をした。初めて日本の古典『万葉集』から引用した」とか、一方ネット上では、「万葉集も中国古典文化の影響をぬぐい去ることはできない」などの報があるという。誰しも自国文化の優位性を強調したいのであろうが、見苦しいことだ。
   日本でも同じようなことはありました。政府の要人が、科学技術創造立国を掲げて「20X年(Xの数字は忘れました)までにノーベル賞学者を100人にする」と公言した時、ヨーロッパの学者から「われわれはノーベル賞を貰うために研究しているのではない」と揶揄されました。
   両者に欠けているのは、人・文化の成長・発展・進歩という視点です。万葉集には中国古典にはない日本文化独自の側面があり、一方のノーベル賞は、人類への大きな貢献がなされたという結果への賞であって、賞を獲得する目的で研究されたものではないことです。早い時期のものが優位にあるのであるなら、ヒトはアフリカの地を出発地点としているので、中国人よりアフリカ人の方が優位な位置を占めることになります。もっと偉いのは、古細菌などの原始生物なのだ、となります。否、もっと偉い(すばらしい)のは、生命を産み出した自然であり、その場を提供した地球なのです。
    ついでにもう一つだけ書いておきます。「安倍首相は、元号決定という行為を今後の選挙活動に影響を与えるべく企んでいる」という識者コメントが新聞にありました。それを否定できないところは確かに感じられます。皆さんは如何にお考えでしょうか?国がよくなるのも悪くなるのも、皆国民の力であることを肝に銘じたいですね。

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