原理・原則(第18話):賢い人の言葉を乗り越えるヒント?(第5話)
ブログを【原理・原則:賢い人の言葉には気を付ける】の観点で記したが、論理学に関して素人の私には自ずから限界がある。そう感じながらも、もう少しだけ記述を進めてみる。
読者の中には高校数学で習った背理法を思い出している人がおられるかもしれない。背理法は「神がいるとして不都合があるかを考えてみる」ことを教えるが、しかし、神がいるとしても、いないとしても「論理学としての真理的不都合は生じない」ように私には感じる。論理学としての真理ならば、その命題は普遍的に成立しなければならないからだ。好きとか嫌いとかや、信じるか信じないかという問題は論理的課題とは少しずれている。前者には、嫌いになる、あるいは信じれなくなる等の時間的経過が入り込む余地があるのに対して、論理的命題は普遍を求めるので時間的経過を超越していて、その命題の存在自体が妥当か否かが問われていると考える。
否定の論理に当たるか否かは分からないが、『例外のない法則はない』という命題がある。この命題が真(正しい法則)ならば、この法則は例外を持たねばならない。すると、例外を沢山持つ法則が法則といえるのか?という議論が生じる。現在の論理学はこれを超越していたと記憶する。それ故、詳しい丁寧な記述は専門家に任せた方がよい。興味深い本が何冊かありますが、私が読んで面白かった本を一つ挙げるなら、「高橋昌一郎:理性の限界」があります。また、同じ著者による「ゲーデルの哲学」には、ゲーデルによる神の存在論的証明の記述もあり、なかなか興味深い本です。なお、両書とも1000円以下の文庫本です。
賢くなるのにも忍耐は必要です。先日のNHK TVで錦織 圭を指導しているマイケルソン・チャン氏が「人が酔う行為の背後に汗と涙とがあることを知れ」と言っておられたが、知的行為に酔うためにも隠れた汗と涙が必要なのだと推察します。
読者の中には高校数学で習った背理法を思い出している人がおられるかもしれない。背理法は「神がいるとして不都合があるかを考えてみる」ことを教えるが、しかし、神がいるとしても、いないとしても「論理学としての真理的不都合は生じない」ように私には感じる。論理学としての真理ならば、その命題は普遍的に成立しなければならないからだ。好きとか嫌いとかや、信じるか信じないかという問題は論理的課題とは少しずれている。前者には、嫌いになる、あるいは信じれなくなる等の時間的経過が入り込む余地があるのに対して、論理的命題は普遍を求めるので時間的経過を超越していて、その命題の存在自体が妥当か否かが問われていると考える。
否定の論理に当たるか否かは分からないが、『例外のない法則はない』という命題がある。この命題が真(正しい法則)ならば、この法則は例外を持たねばならない。すると、例外を沢山持つ法則が法則といえるのか?という議論が生じる。現在の論理学はこれを超越していたと記憶する。それ故、詳しい丁寧な記述は専門家に任せた方がよい。興味深い本が何冊かありますが、私が読んで面白かった本を一つ挙げるなら、「高橋昌一郎:理性の限界」があります。また、同じ著者による「ゲーデルの哲学」には、ゲーデルによる神の存在論的証明の記述もあり、なかなか興味深い本です。なお、両書とも1000円以下の文庫本です。
賢くなるのにも忍耐は必要です。先日のNHK TVで錦織 圭を指導しているマイケルソン・チャン氏が「人が酔う行為の背後に汗と涙とがあることを知れ」と言っておられたが、知的行為に酔うためにも隠れた汗と涙が必要なのだと推察します。
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